同じ本が並ぶ本棚

今週のお題「本棚の中身」

 

大学に入るまでは本棚もなく、

マンガ以外の本もほとんどもっていなかった。

 

予備校の先生の影響で、

読書というものに目覚めた。

 

中学生の頃、父が言っていた。

「お父さんが大学生だった頃は、

岩波文庫を何冊読んだかを競っていた。」と。

 

翻って、自分や友達を見てみると、

本を読んでいる人は見かけなかったし、

読んでいそうな人もあまりいなかった。

 

本というものに興味がなかったから、

読書している人がいても、

目に入らなかったのかもしれない。

 

とにかく、読書しない人間が、

予備校の先生の影響で、

かつての父の話も手伝って、

読書をはじめた。

 

毎年100冊ほど増えていった。

 

まずは、手軽に読めるタイプの小説を読んだ。

江國香織とか綿矢りさとか。

徐々に日本の夏目漱石あたりの時代の小説をよんだり、新書を読んだりした。

 

その後は、父の言霊に動かされるように、

岩波文庫を買い集めていった。

もちろん、買った=読んだ、ではない。

 

私の本棚は、

本棚に入れてたらかっこいいなという本、

もはや読む気のない本、

まだ読んでない本、

途中でやめた本、

読んだ本がある。

 

本棚にあったらかっこいい系の本は、

古典であることが多いから、

今後読む可能性は、ある。

 

本棚の分け方は、

小説は時代ごとの区分で、

新書はジャンル区分。

 

そのほか、

おもしろい視点の本や

再読したい本は、

最上段に収めている。

 

本棚を見ればその人がわかるという。

その人がどんな本を好んで読んでいるか。

小説か新書か。

古典か現代か。

 

その中で、読んだ本はどれほどか。

少数で全て読んでいるか。

多数で半分は読んでいないか。

 

私の本棚の中身は、

多くの読んでいない古典小説。

少数の読んだ現代小説。

パラパラと読んだ新書。

 

記憶に留めるための読書はしていない。

忘れてもいい。

 

忘れたものの中から、

何かしら、いずれ役に立つかもしれないくらいの気持ちで本を読んでいる。

 

これは不真面目なのだろうと思う。

でも人間は忘れることによって生きているところがあるから、それでいいと思っている。

 

この考えだって、

読書から得た考えだ。

忘れてるけど、きっとそうだ。

 

自分の意見は、

自分だけの意見ではない。

 

過去の自分が見聞きした、

いろいろな人の意見の合成だ。

 

本棚は、それらが一覧になっている。

だから、本棚を見られるのは、

なんだか誇らしくもあり、恥ずかしくもある。

 

過去の私は、本棚を一つしか持たなかった。

その他は段ボールに入っていた。

 

だから、再読したい本があっても、

段ボールから探し出せず、

再び買うことになる。

 

内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」は3冊あった。

複数冊ある本が、10種類くらいはありそうだ。

 

読書をあまりされない方からは、驚かれそうだけれど、

案外そういう人は多いのではないかと思っている。