他人のために働くことが、働くということだと思っていた。
結局、人は死ぬ。
ならば、他の人に何らかのことをパスして死ねば、
パスしたもの自体は、生きていくのではないかと思っていた。
それはそれで、間違いではないような気がするけど、
なんか今は、しっくりきていない。
自分のために生きて、結果的に人のためになるのを期待するのは、
おそらく違うだろう。
好き放題生きてたら、自然環境ももたない。
困った。
これまで、頭でっかちに、他人のためにたくさん働いてきて、
なんだか疲れたようだ。
自分の気持ちに目を向けることに怠惰だった。
心に、ちょっと蓋をしてしまっていたように思う。
「自分のために生きる」と「他人のために生きる」の
はざまで、揺れている。
どっちもいい生き方な気がしてくる。
バランスを取るという、つまらない回答でいいのか。
人とうまくやっていくことが、自分の長所らしい。
これは、何を意味するのか。
人の気持ちを汲み取って、状況に応じて、
対応を変えたりすることを意識してきた。
疲れることだ。
自分の生き方を、「正しい」生き方にしない勇気が必要かもしれない。
間違ってもいいから、「自分」の生き方を選択すること。
それが、「いい」人生のスタートかもしれない。
難関大学を卒業したからと言って、一流企業と言われる企業に入る必要はない。
確かに、いい待遇やいい転職探しには有利だろう。
しかし、それは自分自身の選択ではなかったとき、不幸かもしれない。
私は、中途半端な企業を選んでしまった。
誰もが知っている企業だが、いわゆる一流企業ではない。
他人のために働くことを目指して、長時間労働や過酷な仕事、
人手不足の仕事についた。
そして、泥沼にハマった。
休みが貴重すぎて、休みに何もしたくない。
夕方まで寝る生活だった。
自分をしっかりと持っていれば、
きっと立ち上げれたろう。
私は弱かった。
私は、同期のように、きついからやめるということができなかった。
きつい経験をしたいから、入社しているのだから。
その初志を守るほどには、意思があった。
しかし、貴重な休みを、自分の道を変更するかどうかの吟味に当てるほど
強くはなかった。
結局、私は、たくさん働くことを目指して、たくさん働いて、
それが嫌になってしまったのだと思う。
恥ずかしいけれども、そうなのだと思う。
頭でっかちな自分の頭を、かち割って、中身を俯瞰したい。
一体何をしたいのか。
ともかくも、働かないと始まらない。
ダメなら、変えればいい。変わればいい。
それくらいの気持ちでいいのかもしれない。
他人に役に立てて、喜んでくれることは、
自分の喜びになる。
これは、間違いない。
けれど、それを一番の目的に据えることは、
違うのかもしれない。
道は途上だ。
とにかくも働くこととしよう。