神田祭に参加した。
神輿を担いでいると、
神輿を担ぐ人達で、
一つの生命になっているようだった。
上から見た時もそう感じた。
うちの猫が神輿が移動するのを見て、
「うー」と唸っていた。
猫もまた、そこに異様なものを嗅いだに違いない。神を見たか。
50人ほどで一つの神輿を担ぐ。
踵を浮かせて、つま先で歩く。
前の人の踵の下に、
自分のつま先を滑り込ませる。
動きを合わせて、
ひとつの運動を完成させる。
苦しいなと思いながら運んでいた。
一歩一歩をただ進めた。
終わってみて、
テレビに映る自分を見たら、
ものすごい笑顔だった。
苦しい表情で、担いでいたと思っていたのに、
笑顔だったのが意外だった。
みんなで調子を合わせて一つのことをする。
これは幸せを感じさせる行動だと何かで読んだ。
たしかに幸せを感じた。
盛り上がりを感じた。
感動した。
祭りというものは、
人の心に訴えるものだったのだ。
単なる行事と、外からは見える。
内に入った時、見える景色は一変する。
ひとつの有機体の一部になる。
神輿という有機体。
考えてみれば、
人は自然の一部なのだけれど、
頭ではそれをわかっているけれど、
それを私は忘れがちだ。
神田祭は、それを身体的にわからせる装置なのかもしれなかった。
神輿の担ぎ手になれば、
自分の神輿すら見えない。
見て回ろうとしても、
200-300ある神輿の全体なんてみれない。
全体像をみることを禁じているようでもある。
全体を見るというのは、神の視点だからか。
自然への畏れ。
神への畏れ。
畏れという感情を持つことは少ない。
恐れ、怖れは多いけれど。
祭りは、畏れを抱く数少ない行事だった。
あぁ、肩が痛い。