間違えてもいいという決意

 

自分の意見をもつことが、

むずかしいと感じる人がいる。

 

私だ。

 

絶対これだ、というものを持ちたくない。

何が柔軟性を持っておきたい。

 

しかし、それは逃げなのかもしれない。

 

逃げ道を用意して、

相手と軋轢のないように、

道を残す。

 

これを社会性と呼んでいいものか。

 

他人と意見の衝突ないし反対があったとしても、それでいいという態度にこそ、

社会性はあるのかもしれない。

 

物事をスムーズに進めることと、

より高い次元へ昇華することは、

異なるベクトルだ。

 

かもしれない。

この言葉の柔軟さ。

逃げ道を残す表現。

 

断定するほどの確信がない状態。

それは客観的な確信のことだ。

 

主観的な確信というものを、

私は信じなかった。

 

主観は人それぞれだという、

あたりまえの教養が頭にある。

 

でも、主観でも、間違った主観でもいいんだ。

そういう考えには至らなかった。

 

間違えてはならないという強迫観念のもと、

私は生きてきたのかもしれない。

 

間違えてもいい。

堕落ではなく、

間違った主観は、

個性だと言いきれるような決定を、

自分の中に持つ決意。

 

そこのあたりが、

自分に欠けているのだ。(断定)

 

私は、間違っているかもしれないことを、

表現するようになろう。

 

そう決意した。