生活のパラダイムシフト

 

一昨日から、1年5ヶ月ぶりに仕事を始めた。

 

この間に何をしていたのか。

粛々と生活をしていた。

 

ワークライフバランスが叫ばれて久しい。

 

しかし、私はどこかで、それを逃げだと思っていた。

人はいずれ死ぬ。

ならば、他人のために働くことこそが、

自分を次代に引き継ぐ方法だと思っていた。

 

自分の生をまっとうすることに重きを置くことは、

自分を閉じることだと思った。

自分の内部で完結する生に意味はあるのかと。

自分が楽しければいいのかと。

 

自分の利益を優先すれば、

神の見えざる手が作用するのか。

 

しかし、自分の本音はどうなのか。

本音を直視せず、建前を生きていたのかもしれない。

 

人は誰でも、怠惰で、勤勉だ。

両方を持っている。

 

その中で、自制心で勤勉へ持っていける人と、

怠惰に流れがちな人がいる。

 

あるときは自制心を発揮できるけれども、

あるときはできないかもしれない。

 

私は、おそらく、かなり怠惰な人間だ。

それを自覚していなかった。

始末に負えない怠惰だ。

 

一方で、気づくことができたことに感謝している。

改善は、正確な今を知ることで、可能だ。

 

本音を隠して生きていると、

その表面上の自分が、自分になっていく。

 

そのことは、意図しようがしまいが、そうなのだと思う。

だから、自分の本音と向き合うことはとても大事だ。

本音もそうだし、感情も。

 

自分が怠惰であることに気付きもせず、

自分の感情に目を向けず、

遠い周囲のことに思いを馳せがちな自分は、

詰まるところ、生活をしていなかったのだ。

 

自分の人生を生きることを放棄してしまっていた。

どこか他人の人生を生きていた、と今ならば思う。

 

自分の範囲外の知識を得ることばかり、時間をとっていた。

教養ばかり追い求めた。

 

しかし教養とは、過去の知識のことだけでもなければ、

知識の求め方だけでもない。

 

教養とは、生き方でもある。

知としての教養と、行としての教養、そして生活としての教養。

 

その生活としての教養を育んでいったのが、この失業期間だった。

 

記号的な教養から、生活の教養への転換は、時間をかけるべきものだった。

だから一年あまりの時間をとった。

 

なぜならば、自分にとって、パラダイムシフトだったから。

自分の信じるものが180度変わったようだった。

 

自分の感情に気をとめて、受け入れ、本音に耳を澄ませる。

ここが出発点だった。

目の前のことが、とても大事に思えた。

洗い物でも洗濯でもぼーっとすることも大切にした。

 

つい忙しい心もちになると、忘れるけれど。

それはそれでいい。

そう思えた。

 

ワークライフバランスの時間的なバランスはとても大事だ。

また、質的なバランスも大事だ。

いかに生活を想うか。