働くには、人格がいる。

 

働くとはなんのことか。

 

その仕事で、助かる人がいることは幸いだ。

自分の仕事が、なんの意味もないと感じられた時、

それは、考え方や行動を変える方がいい。

 

まだ意味を見出せていないだけかもしれない。

だから、少し待ってみてもいい。

 

意味のない仕事なんてないのだけれど、

自分にとって意味の薄い仕事というのはあるかもしれない。

 

誰かのために働くのが、働くということとも思う。

一方で、自分を発揮することが働くことでもある。

 

自他のバランスをいかに保つかということが肝要だ。

これは仕事に限らず、生きていく上でも。

 

相手を立てることは必要だ。

自分を見失わないようにすることも大切だ。

 

周囲の人の幸せが、自分の幸せだと思って生きてきた。

だから、自分を少し捨てようと思っていた。

 

自分を捨てる。

これは非常に難しいことなのだと知った。

結局、自分がかわいい。

そのことに気づく。

 

自分をかわいがれないと、他人をかわいがれない。

こういう考えもある。

 

自他の問題を、この一年は考えてきたようなものだった。

 

どこか、他人を見下して生きてきた。

一方で、目の前の人には「優しく」接してきた。

 

自分は分裂していたなと思う。

今、他人をやっと尊重できてきた気がする。

相手の気持ちを、真剣に考えるようになってきた。

 

論理的に相手の気持ちを察するということではなく、

相手の立場、性格を踏まえて、自分がすっかり相手になりかわって

話を聞くことを意識するようになった。

少ししんどい。

 

話を聞くことは、かなり好きで、聴き上手と言われることが多かった。

しかし、本当に聞いてはいなかったのだと思う。

 

自分を知ることを放棄し、自分の感性を蔑ろにしてきた人間が、

やっと自分の過ちに気づき、引き返している。

 

相手の話を聞くことは難しい。

自分の話をすることも難しい。

 

自分に目を向けた今、相手の話を聞くことが、

以前より難しくなった。

以前のままの自分に戻るのではなく、

今の自分を生かすような聞き方を創造しなくてはならない。

 

今までの道か、困難な道か。

困難な道の末に、ひとつの到達点があると信じて進みたい。

 

成長という言葉はなぜか好きになれない。

なぜだろう。

 

これ以上の成長が見込めない資本主義経済の中で、

今まで通りの成長を求めることが、虚しいと思うからかもしれない。

 

これが成長が見込める経済状況ならばいいのだけれども、

そうではないとみな薄々気づきながら、今まで通りのことを繰り返す。

 

人類の成長に、地球が置いてけぼりだ。

人類の成長に、地球は悲鳴をあげた。

 

その悲鳴を真剣に考えている人は、少ない。

みな「今まで」にすがる。

 

頭で考えれば、わかる。

ただ、頭で考えられるほど、暇はない。

 

働くとは、自分について考えることでもあり、

その洞察をもって、他人を考えることでもあり、

そのバランスをとりながら、物事を前に進めること。

 

人格は、その中でつくられるのかもしれない。

自分だけを考えては、人格は養われない。

他人だけを考えては、人格は養われない。

いかにうまく調和するかは、人格のなせる業かもしれない。

 

自分偏重の人は多い。

他人のためと言いつつ、自分のために行動している人。

自分がいい境遇にいるために、他人を利用する人。

これは、人格がうまくない。

子どもだ。

 

他人偏重の人は、一見いいひとだ。

しかし、自分がない。

自分がないと、表面的だ。

受動的になりがちだ。

先に進めない。

 

自律していて、自立していて、他者性がある人は、人格者だと思う。

 

働くことは、難しい。

仕事論はいろいろあるけれど、

まず、自分を知る努力と、他人に思いをはせること、

人格に照らして行動することを心がけようと思う。