身の回りの当たり前

 

今年もほぼ日手帳を買った。

 

カバーなしの手帳本体だけで4,000円は高い。

一昨年にカバーは20,000円で買った。

 

カバーは使いまわせるが、

本体は買い替える。

 

年に4,000円は、高いか。

使い方次第と言い聞かせる。

 

自己管理ができて、

成長を促してくれて、

内省の時間が取れて、

自分の感情に気づけて、

書くことで冷静になれて、

自分と向き合う時間がとれる。

 

これが、4,000円か。

安い!

 

そうして、

レジで5,000円札を

高いなぁと思いながら出した。

 

買ってみると、

もうそんなことは忘れてしまう。

ただ、大事に使おうと思う。

 

その気持ちをなくなっていくのが、

常だ。

 

それでいい。

 

身近にあるものは、当然のもの。

しかし、無数の選択の跡だ。

 

当たり前の日常は、

当たり前でない選択の結果だ。

 

つまり、平凡に思える日常も、

自分で選択した、もしくは、

誰かに選択してもらったもので創られている。

 

当たり前は、当たり前ではなかった。

 

そういう目で、部屋を見遣る。

景色が変わる。

 

この景色は、ここにしかない風景だ。

「自分」の結果なのだ。

 

当たり前のことだ。

しかし、当たり前でないことだ。