余白、むだ、が充実な時間を創る。

 

今から見て、過去の時間を無駄だったと判断することがある。

 

今から無駄な時間を過ごそう意気込んで、

それが無駄になったことはない。(と思う)

 

消極的無駄と積極的無駄というものが、

あるのかもしれない。

 

積極的無駄は、

つまりそれは無駄だということで、

必要に迫られることのない時間だ。

 

必要に迫られない時間は、

人生の余白のようなものかもしれない。

 

いいデザインは、余白がいい感じだ。

いい人生も、余白次第ということか。

 

余白的な時間。

 

これが、生産性ということなのか。

 

生産性は、

生産物÷時間みたいな式で表されていて、

時間が膨大ならば、生産性は低くなる。

 

生産以前の時間が、生産性を決めるのかもしれない。

 

学生の頃、

私は結構すぐにノートをとっていた。

 

しかし、予備校で隣の隣にいつも座っている女の子は、ノートをとるのが遅い。

 

自分で理解しながら、もしくは覚えてからノートをとっているのかなと思った。

 

その板書とノートへの写しの間の時間が、

私には気になっていた。

そして、ちょっと真似た。

 

なんだか気になったのだ。

 

そのことを今になって思い出した。

あれは余白だったのだろうかと。

 

ただ機械的にノートにとるだけでは、

生産されていないのかもしれない。

 

授業中に、隣の隣の子のノート書き写しスピードを気にしている僕は、

10数年後の僕にこの文章を書かせるほどには、生産的であった。

 

いったん無駄な時間を過ごしてみることが、

充実につながるのだということに気づいた。

 

これは、うすうす、きづいついた。

けれど、生活に組み込むほどには、

気づけていなかった。

 

このはてなブログも、

久々の更新で、余白が充分だ。