自分をすこし、はみ出す。

 

家計を予算化している。

 

2024年は、「文化・芸術費」を新設した。

 

ここ数年は身の回りのことに集中することを目標にしてきた。

 

今までないがしろにしてきた「生活」というものを再構築しようと。

 

それは例えば料理、掃除、洗濯だったりといったものだった。

これらは、一般的に面倒なものとされる。

そして私もそう思う。

 

しかしながら、

掃除をしているときに、他のことを考えずに、

掃除してるなぁと思いながらやってみると、

なんだか美しい行動に思えてくる。

 

他のことを考えながらとか、

音楽を聴きながらでは、

そういった印象は受けることができない。

 

目の前のことだけに集中してこそ、

それが面倒なことでも、

美しく達成感のあることになりうると学んだ。

 

そうして3年くらい経った。

 

自分の範囲というものを再構築してきて、

とても幸せな期間だった。

 

ここ数年よりも前は、

自分の範囲はないがしろにしていて、

外ばかり見ていた。

 

今は、やっと自分というところに立つことができたと感じていて、

そろそろ外に出ようかなと思っている。

 

外というのは、自分の範囲から少し外の世界。

 

生活に必要ではないけど、

あるといいなあと思えるもの。

 

それは私にとっては、

芸術分野であったりする。

 

今は美術館に行っても、

教養的な目で見て回ることを自制できるのではないかと期待している。

 

芸術を生活の観点から見る。

心を動かして眺める。

 

そういう芸術との関わり方ができたら、

うれしい。

 

「文化・芸術費」は、

心のための予算。

 

アテンションエコノミーは知的か。

 

アテンションエコノミー

 

目を惹きさえすれば、

それがお金になる。

 

YouTubeもXもTVも。

 

何か伝えたいことがある。

でもそれではお金にはならない。

 

そこで内容をアテンションされるように切り取ったりする。

また、伝えたいことではないけど、

注意を引く内容を伝える。

 

まず、お金が稼げることが一番で、

それ以外とは大差がある。

 

だから、皆の注意を引かない本質や複雑なものは、敬遠される。

 

よって、

TVであれば報道が知的に劣化し、視聴者が劣化し、また報道が劣化するというサイクルに封じ込められる。

 

この知的劣化のサイクルは、

近年の経済社会の必然的な結末なのか。

 

経済大国を目指す中に、

知的社会は置いていかれる運命なのだろうか。

 

知的かつ経済そこそこ社会を

創っていきたいものだ。

英語を話すこと。

 

最近英語で妻と会話している。

 

TOEICは810点まで到達したものの、

スピーキング力は全くないのが、

なんとなく気がかりだった。

 

speakというアプリがリリースされたようだ。

Chat GPTを利用したAI講師がいる。

 

TOEICではreadingとlisteningが主だけど、

speakingの機会がないと、話すことに上達はない。

 

生身の人だと緊張もするしハードルも高し。

 

妻は中学英語も忘れてしまっているけど、

文法無視で英語を話しまくっている。

 

話すことを先にして、

徐々に文法を覚えていく作戦。

 

赤ちゃんが言語を獲得するのと同じような手順で、効率はいいかもしれない。

 

とにかく英語を話すという環境が少ない日本にあって、話すアプリは導入したいところ。

 

TOEIC対策で文法は学んだと思っていても、

いざ話そうとすると出てこない。

 

英語を話す。反復することで、

英語を身体化していこう!

 

大人の階段は、隠れてる。

 

大人になることは難しい。

 

年齢的な大人ではなく、

精神的な大人のことだ。

 

なぜ難しいかというと、

それはこの国に大人が少ないからのように思う。目指すべきものが周囲にない中で、

どこを目指せばいいのか。

何を真似ればいいのか。

 

大人になるとは、責任を身に受けることを歓迎することという要素も含まれると思う。

 

一方、責任から逃げたがる人は子どもだ。

 

自分のために生きすぎると、

それは子どもに近づく。

 

身の回りに大人がいない時、

映画、本などの記録媒体は役に立つ。

 

時空を超えるし、距離も超えていくから、

日本に大人がいなくても大丈夫だし、

過去の日本に大人はいる。

 

だが、やはり肉体的な感覚をもって、

大人と接するということは、

子どもを大人にするには最も良い。

 

親が大人であるに越したことはない。

 

余裕がないと、大人も子どもになる時があるだろうと思う。

余裕がない社会、加速する社会が、

大人を子ども化させているのは、

ひとつの可能性としてあるのではないかと思う。

 

ひとまず、

自分がさほど大人でないという事実を認めさせるようなモノに出会うことから始める。

それは、異コミュニティであったり、本、映画等である。

 

あぁ、自分は大人じゃないなと思って初めて、

大人への階段が目の前に現れる。

その頻度を上げて、さまざまな面で大人になっていくように自分を変えていく。

 

そのプロセスなしに、

歳をとるだけで大人になるということはない。

 

増税と不信。

 

少子高齢の社会は、

高齢者を支える財源が足りず、

税を増やす必要に迫られる。

 

しかし、

税を増やすということは、

誰も直接的に喜ばない。

 

増税を唱える政治家は、票が得られない。

だから、増税が必要と分かっていても、

増税ができない。

 

増税ができないままだと、

近い将来に崩壊が待っている。

 

民衆の増税されたくないという意見を反映させる政治家は、民主主義的だ。

 

だが、民主主義的であるがゆえに、

失策する。

 

増税しない社会は、

当面の安泰と引き換えに、

将来を崩壊させる。

 

それはマクロの話で、

ミクロの我々はただ政治が信じられないだけかもしれない。

 

我々を代表している政治家を信じられないということは、我々自身を信じられないということだ。

 

我々は、我々を信じられない社会で、

不確かな将来をさらに不確かにする増税しない社会を作り上げようとしているのかもしれない。

ジブリ「君たちはどう生きるか」

 

ジブリの新作を映画館で観るのは初めて。

 

Dolby Atmosという立体的な音響のチケットを購入。

 

最近は、映画館に行ってもアニメばかり観てしまう。以前はアニメを映画館で観るのはもったいないと思ってたけど、実写で見たいものがないので仕方がない。

 

さて、内容。

 

要約がむずかしい。

かなりついていけない内容だった。

しかし、鑑賞後に咀嚼できずに、もやもやを抱えるような映画は好きだ。

 

以下、覚えてる範囲で。

 

空襲による火事で母親を亡くした少年が主人公。父親が亡き妻の妹と再婚。一家疎開する。

 

疎開先の家(城のような巨大な)では不思議なことが起こる。

 

しゃべるアオサギを追いかけて、

亡き母親と会おうとする少年。

 

叔父が消息を絶ったという建物へ入る少年とアオサギ

 

建物の床が沼のように流体になり、

地下へと沈む少年とアオサギ

 

地下の世界は、死(生以前?)の世界であるらしく、異世界

 

その世界では、

白くてかわいいキャラ(名前失念)が、

機を熟すと天に昇っていく。

それらは、少年たちが来た世界に、

人として生まれるらしい。

 

地下の世界と上の世界。

生以前から、生へ。

 

地下の世界には、亡き母がいる。

しかし、その母は少女の姿。

 

母親になる前の、母がそこにいた。

 

地下の世界には、時間が存在しない、もしくは時間を集めたような世界のよう。

時間を司る?かも。

 

地下の世界のある建物には、

扉がいくつも並んでおり、

それぞれが、それぞれの世界線に繋がっている。

 

少女姿の母は、自分の世界線へと戻ろうとする。それはつまり、未来において空襲による火事によって死ぬ世界線だ。

 

少年は止めようとする。

 

しかし、結局それぞれに、

自らの世界線の扉を選ぶ。

 

人に限らず、

ペリカン、カエル、虫など、

それぞれの生き物が、それぞれの種としての世界線を生きている。

 

輪廻に見られるような、

人として死に、次は虫として生まれるという世界観が、ここの描写にはあるような気がした。

 

君たちはどう生きるか

 

登場人物たちは、

それぞれの生を生きることを選択した。

今の生を受け入れ、前を向いて歩くことを。

 

今の生を、目の前の今を肯定することから始めよう。

 

 

 

不機嫌の背後

 

機嫌良く生きるというのは、

大切なことだ。

 

それは、自身にとってもそうだし、

周りの人にとっても。

 

完璧主義は、破滅の近道だ。

身の回りに完璧主義者がいる。

不幸そうだ。

 

完璧を求めるあまり、完璧でないことに不寛容で、不機嫌になりやすい。

 

そんな自分が、他人に迷惑だなんて考えたこともないのだろう。

機嫌はスキルだと教えてあげたい。

 

性格とか占いとかを信じすぎている彼は、

他者に身を委ねすぎている。

 

そして私は彼から他責思考を学んだ。

他責思考とはなんのことかいまいちわからなかったけど、人に責任をなすりつけることをいうのだと身をもって教えてもらった。

 

自身の異常に気づくことは難しい。

そして、歳をとるほど指摘してくれる人もいない。その人は未婚の40歳。

 

人の振り見て我が振り直せ。

 

本当に勉強になる。

何回その先輩にキレそうになったかわからないけど、修行だと思うことにして発想を変えて立ち上がる。

 

返すべきは怒りではなく、同情なのだ。

 

お世辞で褒められて、

それを謙遜しながらすごく喜んでるのが、

なんとも浅ましく思える。

 

自信を涵養するような、

自分への約束を守る行動をとってないからそうなるのだろう。

 

ゲーム、お酒ばかりでは、人は成長しない。

子供のまま大人になってしまった人間は、

周囲に迷惑を撒き散らして、生きる。

 

それを教えてくれる人のいないまま…。