シェイクスピアは一見退屈で、やはり美しい。

 

シェイクスピアは、

とっつきにくい。

 

まず、人物がカタカナだ。

そして、登場人物が多い。

 

最初の登場人物一覧を暗記してから、

読み進みたいところ。

 

しかし、そんな暗記ができるわけもなく、

ページをいったりきたり。

 

そのことが、

読者をシェイクスピア作品から遠ざける。

 

映像ならば、劇ならば、見やすい。

本来劇なのだから。

 

大学生の頃から何度も挫折してきた。

 

時代も古く、背景知識もない。

物語に入って行きづらい。

 

そんな壁に囲まれたシェイクスピア

 

本人からしたら、本望ではないだろう。

 

そんなシェイクスピアを、

楽しんで読んでいる今の私。

 

何が変わって読めるようになったのか。

 

ただ読んでいるだけだ。

 

楽しそうか、楽しそうでないかの価値判断を保留して、とにかく読み進める。

 

そのことが、できるようになった。

年齢がそうさせたともいえるかもしれない。

 

とかく大学生の頃は、

意味を求めていた気がする。

 

なんらかの意味や特徴が、

対象から読み取れないと思えば、

すぐに諦めて次から次へと興味が移っていた。

 

今つまらなくても、

何かあるかもしれないと思って、

忍耐強く読み進めることができなかった。

 

シェイクスピアを今読めない人にアドバイスするとしたら、

過去の自分にアドバイスするとしたら、

まだ読まなくていいというしかない。

 

いつか読む日が来るかもしれないと思うだけで、いつか読むことになるよと。

 

シェイクスピアは、いつか読まなければならないと思っていた。

 

その意識がもしかしたら、必要かもしれない。

 

または、外堀を埋めていくか。

 

シェイクスピア翻訳者の話などの、

まつわる話からシェイクスピアへの助走を得る方法。

 

いずれにせよ、

シェイクスピアは、

一見退屈で、

読めば宝だ。

 

それは、シェイクスピアが描く人間にも、

いえる。

 

思ったことを飾らず、

自分の意見を多く語らず、

習慣を大事にする人間が、

いい人間だと描かれる。

 

小説は、人間を描いている。

 

ドストエフスキーとともに、

シェイクスピアは、人間を描いているということにおいて、似ている。

 

人間の愚かさや美しさを、

描いていた。