ドストエフスキーの小説。
挫折なしには読むことができない小説。
一回ですんなり読めたという人は存在するのか。
文学史上の最高傑作と呼ばれることもある。
それにもかかわらず、
周りには、読了したという人はいない。
そもそも本を読む人が少ない。
その中で、ドストエフスキーの長編は、なかなか読まない。
高学歴な人や読書が好きな人でも、
読了はむずかしい。
私は5回くらい挫折して、
やっと読了した。
挫折の5回は、いずれも最初の30ページ以内だったと思う。
なにせ、つまらない。
なにも起こらない。
ひたすら人物紹介。
父、男3人兄弟、
その育ての親、前妻後妻の親。
複雑な名前の上に、連想しにくい愛称。
複雑な家族構成。
それぞれの複雑な生育背景。
複雑さの上に複雑さを重ねて、
何も起こらないストーリー展開。
ほとんどの読者は寝る。
映画なら寝る。
読者なら放り投げる。
それでも、読み続ける人は、いる。
教養として、名作だから、ドストエフスキーを読んだ人になりたい。
読むと公言したから。
さまざまな理由が、この退屈な序盤を乗り越えさせてきたのだろう。
私は、公言したから読み進められたのだと思う。10歳下の大学生に読むことを公言した。
さて、読了して思うのは、まだ理解が足りないというか、読めたのか?ということだった。
ただ、字を読み進めたに過ぎないのかも。
でも、内容はよくわからないけれど、
少なからず興奮を伴って、加速して読み進んだことは事実だった。
読み終わった時、
すごい…。という感想だった。
今まで、小説を読んできて、すごいという感想を持ったのは、あるか。
でも、なんか次元が違う、すごさだった。
ドストエフスキー以前と
ドストエフスキー以後とで、
断絶があるような感じ。
そんな文章って、自分には経験がない。
これまで1300冊くらい本を買っているけれど、
ない。
小説を読んで、
何かをプラスするのではなく、
次元や方向を変えたいならば、
カラマーゾフの兄弟は、とても効果的な作品だ。
その前に、
序盤の退屈に克たなければないないが。